荻の歴史
南陽市(北条郷)吉野「鉱山と歩んできた山里」DVD(要約)
※吉野文化史研究会が制作したDVDの要約を許可を得て掲載しています。
※DVDは、吉野公民館(0238-41-2001)で頒布しています。(税込1,000円)
荻の歴史
南陽市(北条郷)吉野「鉱山と歩んできた山里」DVD(要約)
※吉野文化史研究会が制作したDVDの要約を許可を得て掲載しています。
※DVDは、吉野公民館(0238-41-2001)で頒布しています。(税込1,000円)
1.南陽市の吉野地区
吉野地区は、南陽市北部の山間地に位置し、古くから鉱山と共に歩んできた地域です。急峻な山間を縫うように曲がりくねりながら流れる吉野川沿いに集落が点在する山村です。
令和3年4月現在、太郎から小滝地区にかけての十余りの集落には、195戸、602人が生活しています。この地域の最も多い人口が記録されたのは大正時代で、大正10年には4,287人が居住していました。古くから、この地域は金山や鉱山と深く関わり、その栄枯盛衰を重ねてきたのです。
2.金掘りが始まったのは平安時代から
吉野地区で金が本格的に採掘され始めたのは平安後期です。当時、この地は北条郷の「荻村」、「小滝村」と呼ばれていました。荻の「松倉金山」は、康治年間(1142~43年)に試掘されたとの記録が残っています。この康治年間は、奥州平泉の黄金文化が最も栄えた時代と重なります。
3.荻金山の最盛期は江戸前期から
豊臣時代にも金が採掘され朝廷に献上された記録はありますが、当地区の金採掘(金掘り)が最盛期を迎えるのは江戸時代に入ってからです。
寛永15年(1638年)と翌16年(1639年)の『北条郷之荻村検地帳』には、税を課さない田畑以外の土地、すなわち金山を示す「金堀御引地」が20ヶ所以上も記録されています。また、江戸前期にあたる延宝8年(1680年)の『米沢雑事記』には、「米沢にては荻の金山大さかりにして、多分に掘り出して世の宝となる」と記されています。これらの史料から、当地区で金山が最も賑わった第一次隆盛期は、寛永から延宝年間にかけての江戸前期であったことが裏付けられます。
江戸前期に大いに賑わった金山は、前期から中期に入る頃に一時衰退しました。しかし、安永年間(1772~1780年)にかけて二回目の隆盛を迎えます。さらにその後、寛政年間(1789~1800年)に新たな金鉱脈が発見されたとする記録があり、これにより金山は再び活気を取り戻したのです。
当地は、江戸前期の第一次隆盛期、そして中期から後期にかけての第二次隆盛期と、金山で大いに賑わいました。この盛衰の時代を前後して、「千軒長屋」と呼ばれる集落が4ヶ所も整備されるなど、金や銀の採掘と共に地域の歴史が築かれました。その歩みは、現在も残る石碑や供養塔などから知ることができます。
金の採掘が衰退した後も、鉱山は銅や鉄鉱石、錫、亜鉛など、採掘対象を変えながら鉱石を掘り続け、江戸から明治、大正、昭和へと歴史を刻みました。しかし、昭和50年に発生したカドミウム公害問題を契機として、鉱山は完全閉山に至りました。
4.全国から集まる坑夫や人夫
時代を前後して4つの「千人長屋」があった当地区では、金や銀を掘るために全国から集まった坑夫や人夫が生活していました。千人長屋とは、千人ほどの坑夫や人夫が住み込みで金掘りに当たった賑わいから、地元民もそう呼ぶようになったとされます。
4ヶ所あった千軒長屋のそれぞれから1キロメートルほどの歓楽街だった荻村の酒町地区には、金山の総鎮守だったという「酒町神明神社」があります。延宝8年(1680年)に金掘六右衛門が金山開発の成功を祈願して再建したと伝わるお社です。
居残沢にも金鉱跡があり、「谷地興屋千軒」の近くに位置しています。「居残沢開祖の碑」を建立した村松六衞門は、越前国から当地に移住し、金の採掘に成功した集団の一員でした。また、小滝地区にある江戸時代後期の年号が入った墓石には、「仙臺甚兵衛」や「津軽之三太郎」など他領の出身者名が刻まれています。筋の「笹小屋千軒」があったと思われる近くの墓地にも、同様に出稼ぎに来ていた坑夫や人夫の名と出身地を刻んだ墓石が残されており、鉱山に携わった人々の広がりを伝えています。
このように、領外各地から坑夫や人夫が当地の金山や鉱山に出稼ぎに来ていたことがわかります。特に江戸前期には、鉱山の探鉱や採鉱の技術を持つ修験者たちが集めてきた坑夫や人夫が多かったと伝えられています。そのため、吉野の地名は、奈良の葛城山を本拠地とする修験者たちが、故郷の大和国を望郷して「当地を吉野と呼んだ」とする見方もあるほどです。
5.荻村に最初に土着した人々
当地区では、縄文前期の集落跡が4地点で発掘されており、太古の時代から人々が生活していたことは確かです。これらの遺跡は互いに1里(4km)以内の距離にあり、特に縄文晩期の「大醒ケ井」遺跡は、当地区の中核的な縄文集落だったとされています。しかし、弥生時代の遺跡などは確認されておらず、その後の人々がどこに住んでいたのかはわかっていません。
当地区には、神社仏閣の創建や出来事などを記した『南蔵院文書』という古文書があります。これによると、源頼朝の奥州征伐で敗れた奥州藤原氏方の佐藤元治の末孫がこの地に逃れ、定住したと伝わっています。この末裔で羽黒修験となり、後に荻村の先達として活躍した南蔵院宥香が、藩の命により記録した古文書『堂宮御尋帳』は、吉野地区の神社仏閣、岩堂、石碑の創建や伝説などを伝える貴重な史料です。これによると、元治の末孫がこの地に住み着いたのは奥州征伐から約90年後の鎌倉中期、弘安2年(1279年)と伝えています。文書には、「逃れてきた一族の一部は金山の原で見張役(御嶽山物見)、一部は立岩に住んだ」と記されています。
吉野文化史資料によると、金坑内の採掘現場で働く鉱夫や人夫は、主として領内外を渡り歩く技能職人や人夫組でした。地元や近隣の農民が「自坑夫」として雇われた例もありましたが、主体を成していたのは、逃散して流れ着いた農民や異境の信徒などで構成される技能職人や人夫組です。千軒長屋があったと思われる近くの墓地に残る、出身地と名前だけを刻んだ墓石などからも、こうした実態が裏付けられます。
このように、この地で生活する土着の人々に加え、金鉱山には全国各地から集まった多くの坑夫や人夫が共に生活していました。
6.食糧、生活物資の供給基地として(地元農民と坑夫や人夫との関係)
昭和30年代に編さんされた『太郎郷土概史』によると、今から約500年前の江戸前期、寛永時代の吉野地区は金の採掘が盛んで、太郎村の筋地内に「笹子屋千軒」と呼ぶ千軒長屋がありました。当時、筋は太郎の一部であり、太郎村は千軒長屋に対する生活物資や食糧品などの供給基地として栄えました。しかし、それが何年か続くうちに、太郎の山々は切り尽くされ、食糧供給のために山奥まで開墾の手が入り、現在も山奥に田形の山林が残っているのはそのためだとされています。
隆盛期には、地元農民だけでなく、千軒長屋の坑夫たちの食糧、燃料、生活物資も加わり、膨大な量の物資が必要となりました。この物資供給により、地元農民は潤いました。しかし、その一方で「野山は刈り、切り尽くされ」、山頂まで開墾された結果、深刻な資源枯渇の問題が生じました。燃料や木炭の原木、馬などの家畜の飼料、肥料となる草まで、入会地を越えて確保せざるを得なくなり、隣接する村との間で境界を巡るいざこざが頻繁に発生しました。そのため、肝煎や組頭、百姓が立ち会って度々境界の確認が行われたことを示す文書も残されています。